鯨の進行方向に網を張る[「双海網ヲ張図」『鯨魚覧笑録』(R)島の館蔵]
網代として使わなければならないので、今までの突取式のように、一つの漁場で三組も四組も同時に操業することができなくなった。それで一漁場に一つの組が成立するという形になってきた。同時に、網の機材や要員も含めたため、組の規僕も非常に大きくなってきたわけです。
紀州では、網を使うようになっても自分の浦で網をかける漁師や船を確保していたのですが、西海の場合は、どうも大きな網を作ったり使う技術があまりなかったらしく、瀬戸内海からわざわざ大網を使う漁師を連れてくる。西海の鯨組はあちらこちらから有能な漁師をスカウトすることを早くからやっていますので、その延長線上と考えていいのでしょう。生月で行われた網取式補鯨のプロセスを説明すると、まず、山見で鯨を発見する。次に発見した鯨を音を使って、だんだんと網に追い込んでいく。その追い込んで来た鯨を、場合によっては早銛という小さい銛で刺して、せき立てて、網に突っ込ませるわけです。網に突っ込ませたあとは、突取の方法と同じ形で推移していくわけです。最後に刃刺が鯨の上に乗って鼻を切る。これは綱を通すのが目的ですが、多分潜水能力を奪う効果もあったのでしょう。最終的に二艘の船の間に渡した柱に吊って納屋場に持って帰って解体するのです。
谷川…鯨の解体の仕方は、どうでしたか。
中園…紀州など他の地方では、絵巻物を見る限りにおいては、鯨を輪切りにしたりブロックにして.解体していくのですが、西海では、まずほとんど脂肪からなっている鯨の皮をロクロを使ってバリバリと剥いで、大納屋に運んで油に加工する。その後に赤肉、骨や内臓を順繰りに解体していきます。この最初に鯨の皮を剥ぐ解体法が、西海でどのようにして始まったのかが気になる所です。
谷川…小川島辺りの捕鯨の方法なんだけれども、まず鯨が親子連れで泳いでいると、子鯨を捕るというんだ。子鯨を傷つけると、親鯨はそこから離れない。一時暫く遠ざかるが、また帰ってくる。父親の鯨は離れるけれども、母鯨は最後まで子鯨の間をぐるぐる回って、最後まで離れない。それをまた目がけて捕獲する。日本の捕鯨の方法はかなり残酷な捕鯨だったとは言えないこともない。要するに、子鯨を人質というか、虜にしてしまって、鯨の持つ母性愛を利用しているわけです。だから相当罪が深いのではないかと思っています。
中園…生き物を捕る場合には、すべてに罪が深いわけですね。母性愛は人間にも通じることで、非常に罪悪感を伴うものです。しかし鯨で食っていく人たちがたくさんいるためには、やはりやむを得ないのではないかと昔から考えられていた。
谷川…捕るほうの立場から言えば、やむを得ないことだけれども、家の中では、子どもを誉めるように可愛がっている男が、動物に向かっては残酷な、非情なやり方を敢えてやるところに矛盾がないわけではないですね。
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